2015.1.15
フランスで、週刊紙シャルリー・エブドが襲われ、
職員ら12人が命を落とすという、いたましいテロ事件が起きた。
フランスのみなさんが「Je suis Charlie」(私はシャルリー)
というプラカードを持って、言論に対するテロ行為を非難している。
雑誌の最新号では、ムハンマドが「Je suis Charlie」
を掲げて泣いていた。
でも、なんだか腑に落ちなかった。
ムハンマドがいたら。
ほんとうにムハンマドがいたならば。
「Je suis Charlie」のプラカードだけを持っていたんだろうか。
「Je suis Al-Qaeda」(私はアルカーイダ)。
アルカーイダのプラカードも、
同時に持っていたのではないんだろうか。
フランス生まれのフランス人のムスリムの若者たちが、
どんな思いをして、テロ行為に至ったのか。
外国人としてヨーロッパに住むことのつらさを、
多少なりとも知る人間としては、
移民の子どもたちが、それまでなめてきた辛酸を思うと。
テロを起こして亡くなった若者たちのことを思うと、
なんだか泣けてくるのである。
ヨーロッパでもフランスは特に学歴社会で、
グランゼコールというエリート校を出た人たちが、
政治、経済の世界の中心を占めているのだそうだ。
親がフランス語もろくに話せないような、
移民家庭に育った子どもたちが、
そうしたエリート校に入ることは極めて稀なことだろう。
どうあがいても、何をしたって、
自分の声は、社会の中枢には届かない。
やりがいのある仕事にもつけない。
白人社会にとけ込むことはできない。
そんな頭打ちな状況に彼らを追いやった、
そのこと自体は、悪いことじゃないんだろうか。
確かに人を殺すことは、悪い。
どう考えたって悪い。
だけど、人を言葉で殺すことは、
ペンでの表現は、
どんなものであっても許されるんだろうか。
実際に殺すことと、
社会的に殺すことと、
どちらがどれだけ悪いことだと、
はっきり言える人はいるんだろうか。
ホメオパシーを続けていると、わかってくることがある。
この世に、本当の意味での悪人はいないんだ、と。
みんなそれぞれに、そうならざるをえなかった事情を抱えて、
精一杯、一生懸命に生きているんだと。
「君の立場なら君が正しい。僕の立場なら僕が正しい」
ボブディランの言う通りなんだと。
互いを否定し合うのではなく、
理解し合うことに時間をかけられたら。
私たちの生きる世界はどんなに違ってくるだろうか。
もしムハンマドがいるならば。
本当にムハンマドがいるのであれば。
「私は、みんなである」と。
そう言って泣いているように、私には思える。
シャローム(平安がありますように)