Hundseder先生

 

2014年1月27日

 

 

ドイツで、Vithoulkasの学校を率いている、クラシカルホメオパスAndreas Hundsederの臨床に、アシスタントとして参加させてもらってきた。アシスタントと言っても、ただ脇にいて、目の前で臨床を学ばせてもらうという、よだれが出るような授業。

 

50歳、ホメオパシーを始めて25年の大ベテラン。今日の患者さんたちは全員で7人だった。朝から晩まで、一日中患者さんを診ることができた。一人1時間から1時間半くらい。短い時間に、どんどんその人が引き出されていく、レメディーが華麗に決まっていく。すべてがその場でケースを終了した。

 

ドイツ語だから、半分くらいしかわからない。わからないのだけれど、逆に意味に引きずられずに診ることができるという利点もあることを知った。声色、相手への警戒心の表し方、親愛の情の表し方、そして欧米人のせいなのか、教科書で学んできた外見そっくりの人たちに会った。金髪で口が大きくチャーミングなPhos.、やせていて頭が大きく血管が見えるSil.。

 

ドイツにはいいホメオパシーがないんじゃないかなんて書いたのは、うそっぱちだった。すごいホメオパスがいたし、こういう25年選手がちゃんと地元に見つけられる国なんだ、ドイツは。Hundseder先生も、ホメオパシーで食べられるようになるまでは、10年かかったそうだ。それまで障がい者の施設で働いていた。そして、日本も15年後にはホメオパシーの波がやってくる、だから今勉強していることが、きっと求められ、引っ張りだこになる日がくる、がんばれ、と言われた。

 

毎日、朝から晩まで臨床して、臨床時間前も後も、ケースの電話がかかってきて、私生活はほとんどなく、去年には妻に呆れられて離婚したと笑って言っていた。でも、それでもいいくらい、仕事が好きだと、目を輝かせていた。

 

「わかるかい、毎日いろんな人と会う、そしてみんながみんな、それぞれ違った世界を見ているんだ、それがどんな世界なのか想像するのが僕たちの仕事だ。きちんと想像できたときに、相手を助けることができる。それは、神でありながら、人間になったイエス・キリストと一緒だろう? イエスはみんなのレメディーになったんだ」

 

年金の少ないおばあさんには、無料で診療していた。私にはお昼ご飯をおごってくれた。物乞いのおばあさんには、通るたびに、持てる限りの小銭をわたしていた。「どうしてお金をあげるんです?」と聞くと、「もらうことのほうが、あげることより難しいからだよ」と言っていた。よくわからない!!!笑 でも、この先生のキラキラした瞳に惚れた!

 

「妻に言われたよ、僕はホメオパシーと結婚したんだ」って。ホメオパスとは、ホメオパシーに恋した人のことを言うらしい。

 

 

 

2014年1月28日

 

 

Hundseder先生のところで過ごした二日間、一緒に診させていただいた患者さんたち、15人。15人のケースが、鮮やかに、目の前で解き明かされていくという、超・清々しい二日間でした。しかも、先生の惜しみない解説つきという・・・。あ〜幸せだった。

 

解剖生理、血液検査の結果の読み方、手相、脈の見方、先生の知識は幅広かった。患者さんへの対応の仕方も、定型がなく、いちいちすばらしかった。みんなのレメディーが1時間ちょっとで引き出されていくのが、とても不思議だった。診療の最中も、何かとホメオパシー的解説を加えてくれた。

 

なんでここまで惜しみなく、知識を提供してくれるんだろうと、聞いてみたら、こうおっしゃっていた。「知識を生徒にあげると、生徒が自分より上にくるんじゃないかって心配する人がいるだろう。あれは反対なんだよね、先生は生徒に、いったん自分の上にきてもらう。で、それをしている限り、いつまでもその人は、生徒より多くを知ることになるんだよ」

 

昔はとても名誉を求めてがんばるタイプだったみたいだけど、今はもう、「小さなホメオパス」でいいんだとおっしゃっていた。確かに小さな町のホメオパスではあるけれど、けっこう遠くから、たくさんの人たちが先生を頼りにやってきていて、この地方にこの先生あり、みたいな存在だった。

 

先生の診療費は、155ユーロ、約2万円。ドイツでは、Heilpraktikerの資格があると、個人保険に入っている人なら、保険治療でホメオパシー診療が受けられるみたいで、それも本当にうらやましいと思った(ただしドイツの保険料は本当に高い。月に5万くらいする。しかも、労働者全員に加入義務がある)。

 

※ 写真は、虫に噛まれて足が腫れ上がってしまい、パートナーと一緒に来院した女性。先生はLachを処方した。

 

 

 

2014年1月29日

 

 

Hundseder先生の授業にお邪魔させてもらった。主題はハーネマンの人生だったが、それと並行して、ホメオパシーの基礎となる哲学や、先生ご自身の人生も語られた。とても感動したので、ここにまとめた。ドイツ語なので、正確には理解できてない部分もあるかもしれない。ご勘弁ください。

 

・・・・

僕は大学に行かせてもらえなかったので、システムエンジニアになって働いていた。仕事はとてもよくできたんだ。けれど、手にひどい痛みが出てきてしまって、それ以上システムエンジニアとして働けなくなってしまった。でもその後、僕がホメオパスになったあと、最初に僕の診療にかかってくれたのはそのときの上司だった。「どうして新米の僕に?」と聞くと、「君はいい仕事をしてた。一つの仕事でいい仕事をした人は、別のところでもいい仕事をするものだから」と言ってくれた。

 

僕は農家で生まれ育った。7歳のとき、6歳だった弟が死んだ。弟が病床にあるときに、僕は神様にたくさん祈ったんだ、どうか助けてください、と。それがかなわなかったとき、僕は神様を信じることをやめた。弟を奪う神様なんか信じないと心に決めた。21歳になって、自分の手が痛んでいるときだった。僕がある部屋にいると、亡くなった弟が僕をたずねてきた。僕と弟は4時間、森の中を散歩して、いろんなことを語り合った。弟は、あちらの世界にいて、とても幸せなんだ、だから神様をうらまないで、と言った。

 

その後だった、Hypericumを摂ったのは。そして僕の手の痛みは、完全に消えた。僕はホメオパシーに導かれたんだと思う。その後は、ハイルプラクティカーの養成学校に通って勉強し、鍼灸、整体、いろんな代替医療を勉強した。クラシカルホメオパシーほどすばらしいものはないという結論に至り、25歳からホメオパシーを学び始めた。ホメオパシーを習得するのは、ラクな道じゃないが、すばらしい道のりだった。もっと早くホメオパシーに集中すればよかったと思う。だから今、君たちには迷わずホメオパシーを学んでいってほしい。

 

鳥、ガラス、花、草、すべてのものには魂が宿っている。その魂が僕たちを癒してくれる。そのホメオパシーのこころに、僕は心打たれた。

 

レメディーを自分が選んでいるとか、自分が患者を治しているとか、思ったときに、もう終わりだ、道を誤る。僕の師匠である、Vithoulkasもそう言っている。僕たちはただの道具で、ホメオパシーがいつも僕たちを呼んでいるんだ。その声についていくか、いかないかは人それぞれだ。でも、この声についていく、この道はとてもすばらしい道だ。

 

僕はもう、教えることはあまりしていない。10年くらいは教えることに集中していた。今は臨床のほうが楽しい。教えることがいいのは、自分が勉強できることだ。教えるのに準備したり、繰り返したりすることで、ホメオパシーをより学ぶことができる。今は、僕はもう講義に準備する必要がなくなった。だから、毎回新しい経験ができる、臨床のほうが楽しい。

 

臨床には、いろんな世界を見ている人たちがやってくる。大抵の場合、みんな自分のエゴの世界に住んでいて、ものが見えなくなっている。でも見てごらん、彼らのエゴが取り払われていったとき、そこには魂が現れてくる。魂が現れてくるとき、求めるものは、みんな同じだ。僕らは誰でもみんな、同じ魂をもっているんだ。

 

あるとき、臨床で夫を殺した妻がやってきた。刑務所から出て、すぐにやってきた。僕は、女性を責めることはあまりしないけれど、この人はさすがにどうかと思った。けれど話を聞いていくと、この女性が、実の親からずっと暴力を受けて育ってきたことがわかった。ベルトで叩かれてきた。夫とけんかになったとき、彼女はベルトで夫を絞め殺してしまったんだ。そして彼女のお腹には、ベルトの跡のような症状が出ていた。それがわかったとき、それでもその人を責めることができるか? できないだろう? レメディーを摂った後、ベルトの跡はきれいに消えた。

 

ホメオパスになって、多くの患者さんが僕のところにくるようになった。ホメオパスは、自分の抱える問題が大きければ大きいほど、治療にかかる患者は多くなると言われてる。患者は、ホメオパスが解かなければならない、ホメオパス自身の問題でもあるからだ。そういう意味では、僕にはよっぽど、問題が多いということだ。でもインドには、一日に230人を見ている、パロックというホメオパスもいる。

 

君たちにもがんばってほしい。ホメオパスになる道はラクじゃない。でも、すばらしい道だ。

 

 

 

2014年2月4日

 

 

Hundseder先生のアシスタントは、今日で三回目。今日も、ウルトラ・エキサイティングな一日だった。

 

足が麻痺して働けなくなってしまった中年男性、両親からの圧力を受けて、震えが止まらなかった少年、生まれたときから、定期的に耳が痛くなる高校生、などなど。それぞれ大変な思いを抱えてやってきた人たちが、お医者さんをはしごしたあげくに、先生に望みを託してやってきていた。

 

印象的だったのは、足が麻痺した中年男性に、付き添っていたお父さんが、診療途中で泣いてしまったことだった。先生が患者さんに、「あなたのことを心配してる、とてもいいお父さんだ」と言った後だった。

それまで、こちらを信用できないような、閉ざしたような顔をしていた人から、急に大粒の涙がこぼれ落ちたのだった。先生のもとを去るときには、深く手を握り、投げキッスをして出て行った。不器用なアラブ男性の、親愛の情の表し方に見えた。

 

震えが止まらない高校生は、二度目の治療で、震えがまったくなくなっていて、先生が、レメディーの確認の際に、高校生に、あなたはこうなんだろう? こういう気持ちなんだよね?と言うたびに、大きく、大きく、そうなんです、そうなんです、とうなずいていた。そして去るとき先生に、僕をわかってくれて、本当にありがとうございました、あなたが僕にしてくれたことは、本当にすばらしいことでした、と、あいさつをして、出て行ったのだった。

 

休憩のとき、先生は教えてくれた。「ケースをとるときにはね、どの瞬間かで、自分自身が患者になるときがあるんだ」と。

 

みんなの感謝や涙は、きっと、先生が、一瞬でも、苦しんでいる彼ら自身になってくれたことを、みんながわかったからなんだ。

 

寛容(Toleranz)が大事なんだ、と、先生は何度も言った。実はSankaranは、本を書いたとき、Vithoulkasに前文を頼みにきたんだそうだ。でもそれを、Vithoulkasは断った。Vithoulkasは、先生が今も師と慕う相手だけど、それでもその点においては、Sankaranのほうが寛容だった、と言っていた。

 

先生は、針治療についても、東洋医学についても、いろんな代替医療が、人を癒せると言っていた。特に針は、何十年かけて習得するくらい奥が深いもので、そういう針は、効果もホメオパシーと同等のものがある、と言っていた。では、なぜホメオパシーを選んだんです?と聞くと、「一番、美しいと思ったからだよ。こんなふうに美しく、人の役に立てる仕事は、ほかにないだろう?」

 

西洋医学の抑圧的治療が台頭し、ハーネマンの時代と比べても、病を深めていくばかりのこの世界、癌で死ぬ人もどんどん増えている、この現状を見る限り、いつか人間は滅んでしまうんじゃないでしょうか、人類に未来はないんじゃないでしょうか、泣きべそで私が言ったときには、「Psora、Sycosis、Syphilis。でね、破壊の後はまたPsoraに戻るんだ。これは間違いないよ。そうやって少しずつ上って行くだけだから」。なんか、笑っちゃった。

 

義務感とか、人類を救わなきゃとか。

あ、そっか、私、ホメオパシーが好きだから。

好きでホメオパシーやっててよかったんだね。

 

「寛容」、私にとって一番苦手な何かを、先生は教えに現れてくれた、そんな気がする。

 

※ 写真は、先生の診療所に飾ってある天使の絵。患者さんが描いてくれたという。

 

 

 

2014年2月17日

 

 

今日は、Hundseder先生のところでの、最後のアシスタントでした。アシスタント計6日間、プラス、出席させてもらった授業計3日間。MuenchenからAugsburgまで何度も往復しながらのこの数週間、本当に濃い時間を過ごさせてもらいました。

 

最後の今日は、Hundseder先生と、同僚のLauterbach先生、3人で、昼食をいただきました。

 

先生のもとでのアシスタントは、本当にエキサイティングな体験で、正直ずっとここにいて、勉強できたらと思うこともありました。患者も、共に学ぶ仲間も、施設も、母国語で読める資料の数も、圧倒的に少ない日本の環境で、ホメオパシーを学び続けることは、けっこうつらい作業でもあります。

 

Hundseder先生にこぼすと、先生はおっしゃいました、「30年前の僕たちも、まったく同じような状況だったよ。ドイツ語で読める本も、片手につかめるくらいしかなかった」と。ドイツの医師、ハーネマンが始祖とは言え、実際にドイツでホメオパシーが浸透していったのは、30年前くらいからだったそうです。

 

だから、先生たちも最初のほうは、なかなかケースをとることさえできなかったし、ケースをとれる貴重な機会があれば、何人かで集まってとったりもしていたそうです。誰かのアシスタントにつかせてもらえるなんてこともなかった。だからこそ、今、そういう機会を提供しているんだよ、ということでした。

 

毎日、当たり前のように患者が押し寄せている先生の診療所も、ここに至るまでにどれだけの苦労があったかを改めて思いました。先生たちの診療所ができたのは、ホメオパシーの始まったドイツだからできたことじゃなくて、先生をはじめ、ドイツ全国のホメオパスたちの苦労の賜物だったんだなと。

 

本当にいい処方ができるようになる日がくるのか、いつも不安な中でやってきました、と言うと、あきらめなければ絶対に大丈夫だ、と言われました。情熱的に勉強できる力があれば、25年後には、今の僕よりいいホメオパスになれる。だって、僕の時代には整っていなかったものが今はあるんだし、君が僕のところに来た限りはもう大丈夫だ、と。なんと心強い。

 

先生の時代は、Vithoulkasがヨーロッパのホメオパシーの牽引役だったそうです。そして、Vithoulkasからは、アメリカのRogger Morrison、オランダのJan Scholten、インドのSankaran(彼も門下生だったとは!)など、たくさんのビッグなホメオパスが育っていったそうです。自分は小さなホメオパスだから、と、謙遜するHundseder先生ですが、油がのっていた時代のVithoulkasの、教え子の一人なわけで。Vithoulkasは、今はもう高齢化していて、弟子をとったり、講演に出かけていく体力はないけれど、油がのっていたVithoulkasから教わった、油がのっている弟子の一人に出会えた幸運をかみしめました。

 

でも、なんでHundseder先生のところには、生徒がこんなに少ないのか、もったいなすぎる、と私が、一歩間違えると非常に失礼な疑問を口にすると、先生は、Kuenzliの話を知ってるか、と。Kuenzliに学ぼうと、彼の教える大学に入学したS(名前忘れちゃった)が、彼の教室を探していた。きっと人がいっぱい入っている、大きなホールだろうと思って入ったら、なんと偉大なKuenzliが2人の学生を相手に授業をしていた、と。

 

だからね、集まっている生徒の数は関係ないんだよ、ドイツにはホメオパシー学校がごまんとある中で、僕とChristineは生徒を集めるなんの宣伝もしていないからね。だけど、たくさん人が集まっている場所には注意したほうがいい。本当にいいホメオパスだとしても、100人生徒がいれば、そのうち育つのは2人だろう。でも、4人しか生徒がいないホメオパスのところからも、そこから2人が育つんだよ、と。その2人に、ぜひなりたいものだと思いました。

 

日本に帰って、また地道な勉強が始まります、と言うと、これからが本当の勉強だ、と。先生のもとにいれば一生懸命になれるけど、一人ではできない、そういう生徒はいっぱいいる。けれど、一人の時間でも勉強を続けていくことができなければ、それ以上伸びることはないんだ、と。そして、またいつでもおいで、と言っていただきました。この先、ドイツに行く予定はなかったけど、これからは定期的に通わせてもらおうと心に決めました。

 

日本でも、数は少ないながら、よき仲間や師に恵まれているし、よし、前途OKです!

 

※ 写真は、Hundseder先生からいただき、診療所に飾るよう言われたハーネマンの肖像画。