生きよう

2013年12月18日

 

 

ホメオパシーの話とは、直接関係ないんだけど、今日、とても感動することがあった。

 

小学校でドイツにいたとき、週末だけ日本人の子ども向けに補習校というのがあった。そこの同級生で、今はピアニストになっている友達と、今日、10年ぶりくらいに再会した。お父さんがドイツ人で、お母さんが日本人、どちらもピアニストという、バリバリの音楽一家で育ち、子どものころから、朝から晩までピアノの特訓が続いていた、すごいおうちだった。最後に会ったのは互いに大学生のとき。私は当時、新聞記者になろうとしていて、いつかピアニストになった彼女の記事を書くね、とかなわぬ約束をしたのを思い出す。

 

どんなピアニストになったのかな、ピアニストってどんなことを考えるんだろう。10年経った今、知りたいことは山積みだった。互いの近況、ホメオパシーのこと、ピアニストとしてやっていくこと、いろんな話をしてきた。

 

ピアニストという職種は、ほかの楽器と違って、オーケストラにも就職できないので、安定した職を得るのがとても難しいんだそうだ。ピアニストとして有名になる人たちも、ほんの一握りしかいない。そんな中で彼女は、個人レッスンの先生をしたり、大学で伴奏の仕事をする一方、そうした仕事をセーブしながら演奏家としての自分を磨き続け、世界各地でのコンサートにも呼ばれていた。でも、お金には一生ならない仕事、と言って笑っていた。レベルこそ違え、その点では私もまったく一緒だったので、心から笑えた。

 

私なんかはミーハーで、彼女がいくつかの国々をめぐるクルージングの船で演奏した話を聞いたりすると、豪華客船いいなー!と単純に考え、「楽しかった?」と聞くと、「仲間による」んだという答えが返ってきた。一緒に演奏する5、6人のメンバーが、音楽についても、人間としても気の合う仲間だと楽しい、と。練習のときに、「自分はこう弾きたい」とか、「いや自分はこうしたい」とか、いろんな意見を言いながら、納得できるところまでもっていけるから。でも、そういう人間関係じゃないときは、納得しないまま、相手に合わせて弾かなきゃいけなかったりする。そういうときの仕事は、とてもいやなんだそうだ。

 

感動のポイントがまっとうすぎるかもしれないけど、そういう演奏家たちの真剣な舞台裏に、じわんと感動をおぼえた。自分のリサイタルとかではない、クルージングの船での共同演奏であっても、どんなときでも、自分がこうだと思う表現を、来てくれる人たちに提供する。それこそを至上の喜びとして、そのためにこそ誠心誠意、努力し続けている演奏家たち。それが達成できたら楽しい、でもできなかったら楽しくないんだ。豪華客船がどう、という話ではないのだ。

 

そんなわけで感じ入った私が、「メンバーによって、一度一度が新しい演奏なんだね」と言うと、「機械の演奏で十分なら、こんなにたくさんの演奏家はいらないでしょう」と。そう彼女は言ったのだった。そっかー、そうだよなー、と。そこからなんだかじわじわと、根底から感動がわき上がってきたのだった。そう、こんなにたくさんの演奏家がいる世界。演奏家という、人間の衣食住には関わりのない、もし世界が飢餓状態とかになったら真っ先に失業するだろう仕事。それでも、一部の有名ピアニストだけではない、こんなにたくさんの演奏家がいることが、この世界に許されている。いや、この世界には必要とされているんだと。

 

彼女のその言葉は、「いろんな人がいていいんだよ」みたいな、安っぽい言葉とは全然違った。よく言うでしょ、「君は君でいい」とか、「一人一人が違ってていい」とか、「みんな、そのままで最高なんだ」とか。そういう言葉を聞くと、いつもオエっていう気持ち悪さを感じてきた。自分が努力しないことの言い訳、もしくは誰かに言い訳を与える言葉のように思えるから。でも、彼女から出たその言葉は、まるで違った響きを発していた。3歳からピアノを始め、一日十数時間弾き続けることもいとわないような、血のにじむような生活を30年、音楽っていう、とんでもなく多くの人が自然淘汰されていく世界の中で、自分の生きる意味を見いだし続けている、その彼女が、この世の中にはこんなにたくさんの演奏家がいる、それでいいんだ、いやそれ「が」いいんだ、と、私に教えてくれた。

 

その言葉が、なんだか今の私を救ってくれた。彼女よりも、もっと経済的にはやっていけてない自分。一生かけても、たいしたホメオパスになれないかもしれない自分。だけど、生かされている。それは、私も「生きて」いいということだ。いや、どうせ生きるならば、「生きるべし!」ということだ。

 

一生懸命生きてないやつに、「君は君でいい」なんて、これから先も、口が裂けても言ってやんない。でも、人が病気になるということ、苦しんでいるということは、その人が一生懸命「生き」ようとしているということの証しでもある。苦しみとは、ある人が、今ある自分よりも、もっと健康になろうとしているということ、より神に近いような自分の声に忠実に生きようとしている、その力を振り絞っているということの表れだからだ。だからこそ、苦しんでいる人は尊いし(「天の国は彼らのものである」イエス)、苦しんでいる人に出会えるホメオパスという仕事には、100%のやりがいがある。

 

何にどんな努力をするかは関係ない、一人一人が一生懸命生きているならば、たくさんの“演奏家”たちに満ち満ちている、この世界は間違いなく尊いんだと、今日、私は心から思った。「生きよう」。生かされているということは、きっと、本当の意味で「生きる」チャンスが与えられているということだ。どんな場所にいても、どんな境遇にいても、精一杯「生きよう」。それが私たちのお仕事みたいだ。