ハーネマン物語

 

 

 

サミュエル・ハーネマン

 

ホメオパシーの始まりは、今をさかのぼること約200年、ドイツの医師、サミュエル・ハーネマン(1755-1843、写真右)によるものです。

 

 

ハーネマンは、陶磁で有名なマイセンで、陶磁の絵師の息子として生まれました。家で読み書きを習い、初めて学校に行ったのは12歳になってからでした。家は豊かではありませんでしたが、あまりにも優秀だった彼は、先生たちにも見込まれて、医学部を卒業することができたそうです。

 

 

その後、医師として開業したハーネマンでしたが、人体に危険な水銀や瀉血を行う当時の治療法に幻滅し、いったんは医師を廃業します。そのときの気持ちを、ハーネマンは友人にあてた手紙の中で、このように表現しています。

 

 

「病気の人々を治さなくてはならないとき、病気に関するこれこれの仮説に基づき、いい加減な判断に基づいて、薬物集に掲載されている物質を処方するときに、いつも暗闇を手探りで歩かなければならなかったことは、私にとって苦悶だった。結婚してまもなく、これ以上人を傷つける危険を冒さず、科学研究や著作業に専念するために、私は医師の職を放棄した」 『新世紀の医学ホメオパシー』より

 

 

その後、ハーネマンは生計をたてるため、海外の医学書を翻訳する翻訳業を始めるのですが、その中で、当時35歳だったハーネマンは、重大な発見をすることになるのです。

 

 

 

 

キナの実験

 

1790年。それは、ハーネマンが、ウィリアム・カレンというイギリスの医師の書いた『薬物論』を翻訳していたときのことでした。マラリアの特効薬として今でも知られるキナの効用について、カレン医師は「その苦味が、マラリア治療に有効である」と記述していました。その記述に、ハーネマンは疑問をもったのです。

 

 

そしてどうしたかと言いますと、実際にハーネマンは、キナを服用してみる、という行動に出たのです。ハーネマンはこのように記述しています。

 

「実験で、私は1日2回、良質のキナを4ドラクマずつ服用した。足と手の指先などがまず冷たくなった。気力がなくなり、眠くなった。次に心臓の動悸が始まり、脈拍が強く短くなった。耐え難い不安、震えを感じ、四肢が衰弱した。次に頭部に拍動が感じられ、頬が赤らみ、喉が渇き、まもなくマラリアの間欠熱にみられるすべての症状が次々と現れたが、特有の悪寒はみられなかった。

 

 

 定期的に起こる特徴的な症状もすべて現れた。一時的に頭が愚鈍になり、四肢がすべて硬直し、何よりもしびれて麻痺した感覚が体中のあらゆる骨の骨膜にあるように感じる、といった症状である。この周期的な発作は、毎回2〜3時間続き、キナを服用する度に再発したが、それ以外のときはまったく起こらなかった。服用を止めると、健康な状態に戻った。」同書より

 

 

ハーネマンはキナを服用し、出た症状を詳細に記載していきました。キナの服用をやめると、この症状はなくなり、服用するとまたこの症状はぶりかえしました。ここでハーネマンは、ホメオパシーの成立にとって、とても重大な仮説をたてたのでした。それはつまり・・・

 

 

「健康な人に一連の症状を起こすことができるものが、その一連の症状にある人を治すことができるのではないか」というものでした。

 

 

このことは、「似たものが、似たものを治す」(like cures like)という、ホメオパシーにおける最も基本的な原則として、今も生き続けています。

 

その後、ハーネマンは、治療薬として民間的に知られているさまざまな植物や鉱物を自分の体で試し、またその症状を記述する、ということをしていきます。そして今度は、そこで得たさまざまな情報から、それぞれの人に合ったお薬を処方する医師として、活動を再開するのですが、そこで彼はまた、一つの難問に突き当たります。

 

 

 

 

薄めて、振る。 

 

確かに、一連の症状をもつ人に、その一連の症状を引き起こすことのできるお薬をのませると、結果的には病気は治っていきます。しかしながら、その治っていく過程では、「ある状態」が一度、より悪化するという経過が避けられないのです(たとえば、熱がもっと上がる、といったふうにです)。

 

 

では、薄めてみたらどうかというと、確かに一時的悪化は避けられますが、同じだけ効果も弱まってしまう。そこでどうしたものか、と考えたわけです。「う〜ん」。そして、ここからは仮説の話になるのですが、このようにハーネマンは、この関門を突破したのではないかと言われています。

 

 

当時と言えば、ガタガタの馬車道です。そしてハーネマンは馬車に、薄めた薬を積んで、ガタガタ道を出かけていくわけです。そのうち、ハーネマンは家に保管してあった薬よりも、患者の家に往診するたび、持ち歩いていた薬のほうが、効き目が高いことに気づいたのです。「あれれ? もしかして。この振動に秘密があるのだろうか?」。そう考えたハーネマンは、家に保管してあったお薬も、「振って、わたす」ということを始めてみました。すると驚いたことに、薬は同じように効力を発揮するようになったのでした。

 

 

以上は仮説ではありますが、たぶんこのようにしてでしょう、ハーネマンは、薄めて、振る(希釈震盪)、というホメオパシー第2の原則を発見したのでした。また、その後の経験から、この、「薄めて、振る」を繰り返せば繰り返すほど、より迅速で、より根本からの治癒が訪れる、ということもわかっていきました。

 

 

 

 

 

ホメオパシーの確立   

 

以後、20年間の研究の末に、ハーネマンは、

1810年、ホメオパシーの原典と言える著書、『オルガノン』(Organon der rationallen Heilkunde、英語ではOrganon of the rational healing art)

1811年、ホメオパシー初の薬物事典集、『マテリア・メディカ・プラ』(Materia Medica Pura、Puraは純粋)

という、2つの本を世に送り出し、ホメオパシーの理論を確立させました。

 

 

また、1813年にドイツで大流行した腸チフスでは、通常の医療による死亡率が30%以上だったのに対し、ハーネマンはライプチヒで180人の治療にあたり、亡くなった患者は2人でした(1%以下)。しかもハーネマンが治療にあたった患者たちの中には、通常の医院から転院して来た、重篤な人たちが多く含まれていたといい、ハーネマンの評判は、ヨーロッパ中に広がります。支持者、賛同者、弟子たちが、国境を越えてどんどん増えていきました。文豪で知られるゲーテも、ハーネマンを強く支持し、応援の手紙を書き送っています。

※ その後のホメオパシーの治療実績については、こちらのサイトに詳しく載っています。

 

 

しかし一方で、ホメオパシーの勢いを恐れた医師や薬剤師たちからの圧力は強まっていき、とうとう1820年、ハーネマンは告発され、国内での医療行為を禁じられる、という事態になりました。1821年、ハーネマンはケーテン公爵の庇護を受けて、大都市ライプチヒから、ドレスデン近郊にある人口600人ほどの町ケーテンに移り、そこでの医療活動や執筆活動に専念しました(慢性病論』Die Chronischen Krankheitenもこの時期書いています)。

 

妻を亡くしてから5年後の1835年、ハーネマンはパリから治療にやって来たメラニーと恋に落ち、再婚しました。その後は、2人でパリに移り、ハーネマンはパリの社交界を中心に、大きな成功をおさめました。1843年に89歳で亡くなったハーネマンの墓石(写真左)には、彼自身の希望により「Non inutilis vixi」(無駄には生きなかった)という言葉が刻まれています。多くの人命を救い、また後世に、比類なき医療を残した人間の言葉としては、あまりにも謙虚なものに思えます。

 

 

ハーネマンが最後に書いた『オルガノン』第六版は、死後からだいぶたった、1920年になって出版されました。この本が、現在に続くホメオパシーの最も核たるものであり、ホメオパシーを学ぶすべての人々にとっての原典となって、ハーネマンの深い洞察力と熱い思いを、今に伝えています。

 

 

「できるものなら、私の方法よりさらに効果的で確実で好ましい方法を示して、これらの真実に異議を唱えなさい。ただし、言葉だけの論駁はいりません。言葉だけの論駁なら既に十分されてきました。しかし、私がそうであったように、もし経験によって私の方法が最良であることがわかったら、あなたたちも、自分の周りの人々を救うためにこれを利用し、そして栄光は神に返しなさい」『オルガノン』より

 

 

 

(文・画:刀禰詩織)